携帯小説
4seasons
『いちばん高いところへ』
僕たちはそっとくちびるを重ね合わせた。
ふたりがからだを離すと、2月の冷気がくちびるをすべって、濡れていた部分だけがひやりとした。さっきまで彼女が食べていたポッキーの味が口の回りでにおっていた。
この街で一番高いビルの上でキスをしたいと言ってきたのは彼女の方だった。きっといい思い出になるから、と彼女は言った。なにしろそれは彼女のファーストキスだったのだから。
僕は学校が終わると、自転車に乗って市内中を探索した。ビルの目立たない小さな街だったが、目的の建物を見つけるまでに一週間もかかってしまった。そのビルは、日本でいちばん汚いと言われている川べりに建っていた。13階建て築10年といった趣のそのマンションは、側を通ると風向きの加減で、どぶ川の臭いがわき上がって鼻をついた。
僕と彼女は前々から決めてあったように、夜8時にマンション前でおちあい、非常階段を上って屋上まで行った。うかつにエレベーターを使って、住人に見られたらまずいと思ったからだ。ふたりは屋敷に侵入するルパンと不二子を連想して、少しだけスリルを感じた。屋上に着くと、そこには僕の背丈くらいの金網があって、それをふたりともよじ登って侵入した。途中彼女のストッキングに伝線が走ったけど、全然気にならなかった。
屋上は何もない灰色のスペースだった。北側にある給水タンクだけが、紺色の空をバックに黒く不気味な巨体をさらしていた。駅の周辺には何棟かのマンションが建設中で、僕たちがいるマンションより明らかにでかくなりそうだった。
「あのマンションができたら、ここは2番目になってしまうかもしれない。」
僕はそう言って彼女の横顔をうかがった。
「いいよ、今がいちばんなら。」
風でぐしゃぐしゃになった髪をかき上げながら彼女は言った。
そのセリフはなんだか刹那的な感じがして、ちょっと好きじゃないなと僕は思った。
一番高いビルに上ったら、何が見えるだろう。と、あのとき彼女は言った。
屋上からは、どこにでもある地方都市の街並みを見おろすことができた。いつもは目の前を高速で通過していく急行列車も、規則的に並んだ光の羅列にしか見えず、それらは緩慢に移動していた。国道を下るテールランプの赤い隊列も、決して家路を急いでいるようには見えなかった。せわしなく車線変更を繰り返す車も、隊列から弾き出された小さな点滅にすぎず、一台だけ行く先を見失っているようだ。そこには下界で見るよりも、大げさではない光景が広がっていた。それは期待していたもの以上でも以下でもなかったが、そのときの僕たちの身の丈にぴったりあっているようで、安心感があった。まちがっても100万ドルの夜景じゃなくてよかったと思う。僕たちはまだ若く、オレンジジュースで乾杯しても幸せになれたのだから。
あれから10年が経って、駅前には30階建てのマンションが建っている。他にも巨大なマンションが竹の子のようにあちこちに建ってしまい、あの日の思い出のマンションは2番どころかトップ10入りもあやしい。
僕たちはときどき雑誌やテレビや、その時々の流行で作られた人生や恋愛の形にのっかっていることがある。それはそのとき何となくかっこよく見えるけど、振り返ってみると味気ない。だから、そんな思い出をつくってくれた彼女に感謝している。刹那的だと感じた彼女の言葉も、その瞬間を自分らしく精一杯生きている人の言葉だったんだと、いまでは理解できるほど大人になっている。
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