携帯小説

4seasons



『もう、いいや』

目の前には、首都高速道路が長い肢体を延々と横たえ、その付近にあった街や川といったものを覆い尽くして巨大な影をつくっていた。そのころ古い民家が建ち並ぶ日本橋のあたりは、パブルまっさかりのおりで、それまでは大っぴらに語られることのなかった地上げ屋という人々が闊歩し、そこかしこに歯抜けのような街をつくっていた。それらの醜い街並みはバブルの象徴として何度もテレビで取り上げられて、みんなでなんとなく懐かしんだあとに、たいていは利用者のいない24時間駐車場に生まれ変わった。
だれかがそこに「美しくて大きなビルが建つんだ」と言っていた。その間に大切だった人々はいなくなり、時間は過ぎ去って、涙が老いた皮膚に吸い込まれていくのを見るたびに大人たちは愕然とする。だいたいにおいて僕たちの青春なんてのも、そんな風に過ぎ去っていくんだ。
その日僕と友人たちは、屋根の上に無理矢理付け足したような物干し台に集まっていた。その民家は上から見るとL字型になっていて、バブルのせいで空き地になったエリアの中で、ただ一軒取り残されたように建っていた。僕らは歴史あるその地に敬意を表して、2丁目も先の酒屋から買ってきたキリンラガービールのプリングスをプシリと引いて乾杯をした。3人は控えめにビール缶をぶつけあうと、「おつかれ」と小声でつぶやいて、初夏のころとは明らかに味の違うビールをひからびたのどの奥に流し込んだ。目の前では携帯用ガスコンロの上にかけられた土鍋が時折湯気をあげて、中を覗き込むと町内の豆腐屋さんから買ってきた絹ごし豆腐が、白みそで味付けされゆったりとした液体の中で、食べごろを知らせるようにぷるぷると震えた。 「いつ取り壊しになるの?」
向かい側に座っていたリカコが、口の端についたビールの白い泡を細すぎる人差し指で拭いながらそう言った。いつもは白すぎて病弱に見えるのその指が、今日は物干し台に取り付けられた白熱灯のせいで黄色く厚みをもって見える。
「来週」
Tは授業のあと友達と別れるときのように言った。
この家は来週壊される。
Tは僕の数少ない友人のひとりで、日本橋のこの地で生まれ育った。
Tの家は戦後おばあさんが美容院をはじめたハイカラなお宅で、窓枠に洒落たデザインの鉄格子が入っていたり、近所では珍しいピンク色の外壁に魚のイラストが描いてあったりして、付近でもかなり目立っていた。先月、ひとりで美容院をきりもりしていたおばあさんが亡くなった。人の住まなくなった家があっと言う間に痛んでしまうように、2、3日家を空けただけなのに観葉植物が訳もなく枯れてしまうように、そこにいるべき人がいなくなった場所というものは、そのことを敏感に感じていて、あたりのレベルをとたんに落としてしまうことがある。Tの家は両親とも普通の会社勤めをしていて、美容院を継ぐ人間は誰もいなかったから、必然的にお店はほこりっぽくてごちゃごちゃとした場になった。ごちゃごちゃの中には、僕とリカコも含まれていた。つまり、今日は壊される家の送別会なのだ。
リカコとTは同じ付属高校あがりで、そのころからつき合っていて今に至っている。背が高くて頭が良くてラグビー部のキャプテンをしているTと、笑顔が素敵で誰にでもやさしくできるリカコは、僕がそうと言わなくてもお似合いに見える。リカコは鍋の中に箸をいれると、左手にもった緑色の小鉢の中へ豆腐や春菊や鳥肉といったものをバランスよく集めてTに渡した。Tはそれをリカコの彼氏らしく気軽に受け取ると、その絶妙なバランスにはまったく気がつかないかのように、全部いっしょくたにして口に入れ、ぬるくなったビールで流し込んだ。
「就職決まってよかったな」
僕はTが無粋に食べる姿を横目で見ながらそう言った。Tはほとんど就職活動らしきものをしていなかったくせに、土壇場になって父親のコネをつかって難関のマスコミに内定をもらったのだ。そこは僕が必死になって入ろうとしていた企業で、Tもそれを知っているはずだった。一時は割りきれないものを感じたけど、別に今はそれが不公平なことだとは思わない。誰もがコネも実力のうちだと言っているし、僕にもそれなりのコネがあったらそれを使わずにはいられないだろう。それにそんなことでセンチメンタルになるほど、もう子供でもないんだ。
「で、おまえはどうする?」
と、Tは僕の目を見ずに言った。人の目を見ずに話しかけるのはTのくせだ。僕は口に入れたばかりのネギが舌の上を行ったりきたりした後に、ようやくのどの奥に落ちていくのを確認してから口を開いた。
「お前の髪を切る」
Tははじめぽかんとした顔をして、そのうち僕らの殺気に気づいたとみえて、マジ?という半分笑い顔で、箸と小鉢を両手にもったまま身構えた。
リカコは1階のお店から拝借してきた前掛けを取り出すとTの後ろにすばやく回り込み、ヤツの両手がふさがっているのをいいことに首のところでひもを結んでしまった。僕はジーンズのポケットに納めてあったこれまたお店からくすねてきたバリカンをTの目の前でちらつかせ、僕らがマジなんだってことを見せつけた。8月までに就職が決まらなかったら、坊主になると言ったのはTだったのだから。

続き>>|1||




携帯小説4seasons*
(C) y