携帯小説
4seasons
『さよなら少女』
B校舎に自転車を停め、3階に上がると教室の前で聡史が緩く手を振る。赤い目をした友人は、寝癖のひどい頭をかきながらバッグを肩にかけ直した。
「今夜大丈夫?」
「11時に集合だろ」
吸いかけの煙草を灰皿の淵にこすりつけ、聡史は眩しそうな目をして立ち上がった。オレンジ色のベンチに雪のような灰がゆっくりと落ちていく。
夜のプールへ誘われたのは昨日のことだ。前期のテストが始まるからと一度は断ったが、ここ2,3日続いた猛暑は耐え難く、結局は聡史の誘いに乗ることになった。小学校に忍び込むといういたずらが、テスト勉強で凝り固まった頭をリラックスさせるのに、ちょうどいいプランにも思えたのだ。
授業が始まると、講師は挨拶もそこそこにカセットデッキのボタンを押した。何度も聴いたドイツ初代大統領の演説が流れ出す。お経のように抑揚のない声が午後の教室に響き渡った。
隣の席に座った聡史がノートにさらさらとペンを走らせ、僕の方に広げてみせる。見慣れた文字が真ん中で小さく並ぶ。
『彼女と別れた』
聡史の端正な顔がこちらを見ている。それを確認して、僕も余白に文字を書く。
『また?』
『次がいる』
『今度はどんな子?』
『中学生』
『犯罪だな』
ノートを閉じて、聡史は教科書の方に向かった。大統領の演説を目で追っているフリをする。
聡史の女癖の悪さはクラスでも有名だ。合コンだけでは飽き足らず、ナンパに精を出し、出会い系サイトを駆使して女の子を求める。何度か寝てみて飽きてしまうとまた違う子を探す。もう相手に対して感情なんてない。口が臭いとか、形が悪いとかそんなレベルで平気でおとしめる。見た目が今風で優しげなだけに、女の子はみんな恋愛と勘違いしてのめりこむ。だから捨てられた後は大変で、そんな仕打ちを受けるなんて思いもしないから可愛さあまってなんとかだ。ナンパやネットで知り合っているのを忘れて、刃物でも持ち出しそうな勢いで修羅場を演じる。
彼女たちは身も心も中途半端で不安定なくせに、聡史の側で一様に女の顔をして寄り添っている。僕が忠告しても相手にさえしない。それどころか、女の子たちの顔はますます上気して、だから何?と言っているように見えた。あの子たちはどうしただろうか。きっと、あの頃よりは大人になり、幸せになっているに違いない。
向かいの団地から布団を叩く音が散発的に届き、黒板には女性講師が書きなぐった構文が右肩上がりで踊っている。光化学スモッグを被せた空が、窓の外に広がっている。
教科書を放棄した聡史が机の上でシャープペンを走らせ、点と点を結んでは消しゴムで消すという動作を繰り返していた。中学生の頃ドイツで過ごした聡史にとって、大学の授業は小学生レベルだ。
「これってオリオン座じゃない?」
聡史が机の傷をつないで作った線に目をやった。確かにオリオン座の三連星みたいなものが並んでいて、見ようによってはそうとも言える。
「オリオンの足のあたりが少し広がりすぎてる」
僕はそう言って、本来一等星リゲルがあるはずの場所に丸をつけた。聡史はそれを見て満足すると、また他の傷を繋ぎはじめた。
小学生の頃に天体望遠鏡を持っていたせいで、二人とも星の話にはちょっとうるさい。
前の席に座る女の子の栗色の髪の間から、大きく開いた背中が少しだけのぞいた。うつらうつらと舟を漕ぐたび、白い肌に浮いたニキビがそっと顔を出す。
講師に指名された聡史がおもむろに立ち上がり、流暢なドイツ語を披露した。教室中から感嘆の声が漏れ、何事もなかったように席に着く。下手くそな発音で同じフレーズを繰り返す講師の声に苦笑しながらノートを開く。『彼女と別れた』という文字を囲むように大きな楕円を描き、僕の方に見せた。何の軌道かわかる?という問いに、迷わず冥王星と答えた。
「正解」と聡史が言った。
太陽系の惑星の中でも冥王星は極端に軌道が傾いている。約17度。一つだけはみだした、気まぐれはぐれ星だ。
講師が突然僕の名前を呼んだ。涼しいはずの教室なのに、どっと汗が流れる。聡史はそんな僕には見向きもせずに、軌道の上にボールペンを数回滑らせ、先ほどよりはっきりした線を描く。
講師から解放された僕は、それを覗き込んで何をやっているのかと聞いた。
「軌道の傾きについて考察している」
ノートの上に線が走るたび、手の甲に血管が浮いては消えた。そんなものわかるかと僕は言った。
「でも、子供の頃は考えたろ?」
「ああ」
「なんで今はそう思わないの?」
「たぶん、他に考えることがいっぱいあるからだろ」
聡史は僕の答えを無視してノートに向かい、軌道の考察に集中した。最初は細く弱かった線が、何度も描いていくうちに太い線となっていく。ドイツ語の濁音の多い音をみんなが一斉に発音した。軌道を描きながら発音する聡史の姿は、どこかの祈とう師のようにも見える。
しばらくすると思わず聡史の声が漏れ、それと同時に気味の悪い音が教室中に響いた。子供の頃に間違えて踏み潰したカブトムシの音に似ている。ノートが斜めに裂け、筆圧の強くかかっていたボールペンが真ん中から折れている。みんなが一斉にこちらを振り向き、黒板に新しい文法を書いていた講師が真っ赤な顔をして睨んでいる。
あまり反省したそぶりも見せず、聡史は教科書に目を戻した。ノートに手をのせると、指先から少しだけ血が流れ、冥王星の外れに太陽のような赤い染みをつくった。
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